つい先日にも投稿しました、増田俊也(ますだとしなり)著の、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」上・下2巻(新潮文庫)でした。

 

借りてから直ぐその晩に上巻を、そして2日後の昨日に下巻を読みました。

 

この文庫本の内容は私が若かりし時に最高のイベントで有った、「プロレスのチャンピオンである力道山と、柔道のチャンピオンである木村政彦との対戦で、その時の経緯や木村政彦氏の出自から、最後に無くなるまでをあらゆる資料や新聞で時系列に調査し、その中で木村氏が死ぬまで後悔の念と怨念を捨てきれなかった力道山との試合を詳細に書かれたモノでした。

 

木村氏が柔道界で如何に強豪で有ったか、またその超人的な練習がどれ程のもので有ったのかを検証しています。

そして現在の講道館柔道に欠けていると云われている寝技にも検証が及んでいます。

 

それは戦後、GHQによって武道が禁止された時に講道館が、「柔道は武道ではなく、スポーツで有り体育である」と詭弁を持って生き残ったからだとも。

 

なので大昔から連綿と伝えられていた柔術の技で有った「当て身」等が禁止され、「立ち技」が主流になったとか。

なので東京オリンピックの無差別級で、日本代表の神永選手がオランダのアントンへーシンクに寝技に持ち込まれて負けたのだとも。

 

その寝技や当て身が古来柔術の元でもあり、現在では寝技の主流はグレーシーに代表されるブラジリアン柔術に見る事が出来るとも事。

 

そして肝心のプロレス対柔道の世紀の一戦と持て囃された試合も、裏事情を詳しく調査されていました。

プロレスは八百長か否か、ストーリー(ブック・台本)通りの取り勝敗が最初から決められているとか。

 

そしてその対戦前の交渉で、力道山の巧妙で狡猾な契約書を作成した経緯や、後日に力道山から、「木村から八百長を持ちかけられたし、その証拠書類がこれだ」とマスコミに公開されたとの事。

 

それは力道山が交渉後に、「これは検討するから預かって押印してから返す」との事だったと。

しかし、その後幾ら請求しても返されなかった契約書であったとも。

 

内容は61分3本勝負で第1ラウンドはプロレスの力道山が勝ち、第2ラウンドは柔道の木村が勝つ、そして第3ラウンドで両者の痛み分けで引き分けるとの契約内容であった。

 

それを力道山が約束を破り、第1ラウンドの途中からセメント(八百長なし・ブックなし)の攻撃に切り替えたとも。

 

初めの内は柔道の木村もストーリー通りだと受け流していたようだが、力道山の右ストレートパンチを顎に喰らい、そのごは相撲での鉄砲(掌底・手のひら)攻撃に続き、倒れたところに顔面や後頭部にトウキック(足の甲でサッカーボールを蹴る様)を十数回も行いダウンさせたと。

 

これとても八百長だからと気を許して油断していた木村氏が駄目だとの意見も多数調べています。

またグレーシー柔術のチャンピオンも、「木村先生は最強の柔道家ですが、あのような試合に出たこと自体が間違っています」と。

 

そして、その対戦をリングサイドで見ていたT大学の後輩でもあるK空手O創始者も、負けた直後に、「力道山のやろうは汚い、俺が相手になってやると息巻いていたが、最後の方では、「木村は練習不足であり、油断をしていたのが敗因だ」と変化しています。

 

しかし裏社会(反射会)の人間により仕組まれていた経緯や興行で、日本中が世紀の対戦に湧きました。

 

そして負けた木村氏は社会的にも葬られ、負けた事実のみを背負わされ生き続けました。

歳を取っても柔道への愛着は凄く、T大学で後輩を指導しながら後継者の育成をしていきました。

 

そして勝った力道山は、若くして暴漢(一説には暴力団員とも)に刺され、それが原因で腸閉塞を起こし死亡されました。

 

昔の事でもあの対決は子供心に残っています。

 

この文庫本を読み終えて、今後は柔道や柔術を観る目が変わるかも分かりません。

 

本当に読書は良いものですね。

しかし老眼で文字が小さいのが文庫本の欠点でもあります。

 

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べーやん 徳島文理大学

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